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minofoto and miscellaneous notes

個人的な備忘録ですが、たまに広く読んでもらいたい記事を書くこともあります。記事は随時修正したり追記したりすることがあります。

理不尽にやると上手くいくもの、いかないもの

雑記

昨日の「努力が報われるという共同幻想」の続きです。

京都大学の受験者がネットの公開掲示板を使ってカンニングをしたのではないか、という事件でマスコミや twitter 界隈が賑わっています。公開掲示板で誰でもその痕跡を見ることが出来るようになっている以上、世間が騒ぐのは仕方がありませんが、おそらく京都大学を始め関係大学の方々は頭を抱えているのではないかと心配しています。カンニングを許したことも困ったことでしょうが、それよりもカンニングの手法や犯人が公知のものとなり、それについてマスコミが再現実験までして犯人探しに大騒ぎしているということに関係者は頭を抱えているのではないかと想像します。

通常でもカンニングに対しては厳正に対処されるでしょうが、しかしその対処には必ず教育的な配慮がなされるはずです。決して何でも警察に突き出せばいいと思っているわけではないはずです。よく分からないのですが、過去にも刑事事件になったカンニングというものがあるのでしょうか。ひょっとすると日本ではないのかもしれない、と思います。

試験というものは、点数をつけて優劣を決めたり、選抜をするためのものととらえている人が多いでしょうが、私は実際に大学受験をしたときに、それは違うものだと気づきました。京都大学のような個性があり、レベルの高い大学の試験には、往々にして遊び心のある問題が出ます。そこに暗黙のうちに「この問題の面白さが理解できるような人に来てほしい」というメッセージを込めているに違いありません。いろんな大学の過去の入試問題を解くうちに、そこに込められたメッセージを理解し、私は「この大学になら行きたい」と思えるようになりました。おそらく大学の先生もそれがわかる人を教育したいと思っているはずです。

もちろん本当はペーパーテストではなくてもっと人柄なり関心事を知った上で選抜したいのでしょうが、たぶん現在の試験制度と大学の他の業務の両立から、そこがギリギリできるところなんだろうと思います。

事件へのコメントで「公平な入試」という言葉が何度も出てきましたが、これは真正面にとらえてはいけない言葉です。表向きは公正に学生を選抜している、という建前が必要ですし、事実公正に採点しているのでしょうが、それは勉強の量や努力に比例して得点できるものではなく、その面白さが理解できるか、というところで決まって来るのではないかと思うのです。大学入試の結果は決してその人の能力の指標ではなく、ある程度までは学問の面白さをどこまで理解しているか、という極めて主観的な指標でしかない。

多くの企業がその結果を採用試験のための指標にも使っているということは、学問を面白いと思うことと、その企業の業務とに何らかの相関を見いだしている、とみなすこともできます。採用担当者たちは、それを能力の指標、努力の指標などと読み替えているのでしょうが。

このような学問の面白さ、という極めて言語化しにくい、主観的な価値観を社会全体で議論するような状況はとても困ったことです。本当は主観的なのに公平を建前にしないといけない大学、それを叩くマスコミ、マスコミを恐れて奇妙な指令を出す官庁や大学事務、それに振り回される受験生、と何もいいことはありません。社会のためという建前を背負って、主観的な判断を必要とされる大学は、極めて高度な離れ業をやっているとも言えます。

昨日触れかけましたが、教育の現場こそ、理不尽にやると上手くいく」ことの典型なのではないかと思います。公平をであるふりをしながらも、完全に明文化された公平さを導入すると、おそらく教育の機能は死んでしまいます。教師と学生という非対称性があり、しかもその非対称性は双方に、少なくとも学生にとって必要な非対称性である場合に、ルールの恣意的な運用が許されるし、また必要なのだと思います。医療もまた医師と患者のあいだには非対称性があり、様々な理不尽さが必要な現場でしょうね。

一方、権力の行使における理不尽さは、大方の場合はやってはいけないことでしょう。スピード違反したらある確率で捕まる、のは仕方がないとしても、ある確率で死刑になるとしたら、暴動が起きてもおかしくありません。ルールの恣意的な運用が許されるのは、そこに教育的な配慮がある場合でしょう。聞くところでは、裁判の場でも、日本では反省していたり、その犯罪を起こした事情によって減刑されるようです。殺人なら何でも死刑、というような硬直的な運用はされていません。それは更生を期待した教育的配慮といえるでしょう。

そもそも社会制度はそのシステムの中で成長していく若者を教育できるように設計されなければならないはずです。そこに一見理不尽な、恣意的で不公平な運用の余地があります。その余地がないように完璧なルールを言語化することはおそらく不可能ではないかと思います。仮にそれを明文化したら、それば膨大なものになってルールとして意味をなさなくなってしまう。だから、ルールはいつも建前と運用の間に少しずつ隙間を残すことを必要としています。その隙間にまで公正さを外野から求めると、それは教育の能力を失ったしくみになってしまうでしょう。

インターネットはまだ若く、その中で生まれ育った人がそれを運用するまでには至っていません。だから、教育的配慮までもがシステムの中に取り込まれていません。おそらく、インターネット社会の中での教育の方法というものがこれから試行錯誤されていくことになるでしょう。しかし、少なくとも言えることは、YESかNOか、正義か否か、というデジタルな判断をすることができないとものが世の中にはたくさんあるということでしょう。常に公平であるためのコストは馬鹿にならないので、恣意的な判断が必要とされることも多いということを、説明責任を果たせない場合があるということを、私たちはこれからインターネット化社会を構築するうえで、考慮しないといけないのだと思います。