minofoto and miscellaneous notes

ごく気まぐれに,書きたいことを適当に書いています。本当の話かもしれませんし,フィクションかもしれません。

邪悪–evil という言葉

「平気でうそをつく人たち―虚偽と邪悪の心理学」という本を読んでいます。

この本を読んでいるのは、まずは駅前の本屋でこの本が山積みになっていたからですが、それだけではありません。

それはともかく、evil–邪悪という言葉を久しぶりに見た気がします。この言葉で思い出すのはアメリカ大統領、ジョージ・ブッシュが「悪の枢軸–evil axis」とイラン、イラク北朝鮮を名指しした演説以来でしょうか。そのくらい我々日本人にはなじみがない言葉だと思います。そもそも「邪悪」を表すやまとことばは存在しないのではないでしょうか。しかし、日本に邪悪な人が存在しない訳ではありません。最近ニュースを騒がせている連続殺人事件の主犯と疑われている人も、もし報道されている事実が正しければ、「邪悪」と呼ぶべき存在ではないかと思います。

邪悪な人、というのは、この本のタイトルにあるように、嘘をつくことに全く罪悪感を感じない人のことであり、自分への反省というものが欠落した人のことです。この著者ベック氏は、それが強い遺伝的な要因と生育環境によって形成される「精神的、心理学的な病気」なのではないかと考えています。他人への感情移入ができず、罪悪感がなく、自分に対するメリット、デメリットだけでしか人間関係を判断できない、どこか脳の働きに欠陥がある人間が存在する、というのが、この人が述べていることです。

この本を手に取った理由の一つは、自分が最近出会い、その人たちとの関係について悩んだ挙げ句のことです。

この人たちに対して自分が感じる違和感は、最初、海外経験が長いことによるカルチャーギャップではないかと思っていました。しかし、どうもそれだけではないと思うのは、日本に来た西洋人の多くには、阿吽の呼吸が通じないにしても、感情的な交流ができないという違和感を感じることがないことなどからです。

人間には感情移入の能力が高い人や低い人、または罪悪感が強い人や弱い人など、様々なスペクトラム状の分布があると仮定してみると、邪悪とまでは言えないが、生物学的に感情の一部が欠落した人が存在してもおかしくありません。そのようなスペクトラムによって、私が違和感を感じた人々の行動が説明できるかもしれない、と感じています。

それにしても不思議なのは、我々日本人が邪悪という概念をはっきりと持っていないことです。ブッシュ大統領がアメリカ国民に対して "evil" と演説できるくらいに、アメリカでは理解される概念なのでしょうが、日本が戦争を仕掛けるときに相手を邪悪だと名指しすることは、想像できません。むしろ、「大義のためにやむなく戦争という手段を使う」という言い訳をしそうな気がします。昔話に出てくる「鬼」は邪悪な存在を表現しているようにも思えますが、一方で昔話には、鬼に対する暖かい眼差しも感じます。

日本人にもそのようなどこか欠落した人が存在するだろうと思いますが、我々はどのようにそういった人々を取り扱ってきたのか、もうちょっと考えてみたいと思いました。