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minofoto and miscellaneous notes

個人的な備忘録ですが、たまに広く読んでもらいたい記事を書くこともあります。記事は随時修正したり追記したりすることがあります。

『「いいね」時代の繋がり――Webで心は充たせるか?――』を読んだ

blog 「シロクマの屑籠」の作者の著書を読みました。著者自身による紹介が以下にあります。

『「いいね」時代の繋がり――Webで心は充たせるか?――』“はじめに”を公開します - シロクマの屑籠

この本の感想と言うより、それをきっかけにした駄文を書いてみようと思います。

最初にソーシャルメディアなるものを耳にしたのは、mixi でした。当時、入会には紹介が必要で、身近に紹介してくれる人もおらず、またなんだか面倒くさそうだな、と思っただけで、自分がやってみようとは思いませんでした。しかし、Facebook が登場し、特に海外で当たり前に使われている状況を見て、百聞は一見に如かず、と使い始めました。最初に入会したときはまだ日本人のユーザーも少なく、自分の住所を入れても無理やり別の候補に入れ替えられるという、ひどい状態でした。(例えて言うなら、Chiyoda-ku, Tokyo と入力しているのに、Chuo-ku, Tokyo という候補しか出てこず、それで確定されてしまう。)

それが今や、多くの知人と様々なソーシャルメディアでゆるくつながっているのが当たり前になってきました。もちろん世の中には、ソーシャルメディアを断固拒否する人、どっぷりつかっている人、どっちつかずで距離を置いて使っている人、いろんな人がいますが、ソーシャルメディアのせいで世の中が随分変わってしまったのは事実です。

この本は、そういったソーシャルメディアの時代に、そのシステムではなく、それを使う人の心のあり方と、心の健康に着目したものです。だからこそ、ネットを使う人にも使わない人にも価値のある内容になっていると感じます。また、著者のネットユーザーとしての体験を精神科医としての知識で読み解いたものといえるかもしれません。私も草の根 BBS やら NIFTY-Serve の時代の片鱗も知っているので、自分の体験を裏付けてくれるような、なかなか興味深い本でした。

このを読んですぐに思い出したのは、田口ランディさんです。彼女の初期の作品は、精神科にお世話になるような家族を持ったひとりとして、自己愛とは、承認欲求とは、というテーマを追求していたと私は理解しています。なかなかグロテスクな表現もありますが、こういうことを自分に対して真剣に追求すると、どうしても醜いものが顔をのぞかせるのは、避けがたいことかもしれません。かくいう私自身の承認欲求も、おそらくかなり曲がりくねっています。

この本の余韻は、そうやって自分のことを考えてしまうところ。ソーシャルメディアに興味があろうとなかろうと、一読の価値はあると思います。


そして、この本の作者のブログから、この記事に辿り着きました。これもなかなか考えさせられる記事です。

「きっと何者にもなれない」あなたへ - 琥珀色の戯言 より

 僕がこの年齢になって感じるようになったのは、「自分は何者にもなれないのだ」と知ってから、本当の「人生」がはじまる、ということなんですよ。

これは、40歳を過ぎてからの感想なので、よくわかるのですが、

 「何者か」であろうとするより、「生物としての根源的な喜び」を積み重ねていくほうが、「正しい」のかもしれない。

 何も好きなものがなく、感情移入することもなく、ひたすら「生物として生き続けること」に集中できれば、ラクになるよねきっと。

ここだけを切り出すと、ちょっと問題もあります。実は、私は子供の頃に、生き物の進化について考えに考え抜き、こういう結論に到達してしまったせいで、ちょっとヘンテコな人生を歩むことになってしまったのではないかと思っています。こんなこと、気付かない方がよかったのかもしれない、とちょっと思っています。もちろん上の記事の批判のつもりではありません。上の記事は文脈から誤解の余地はありません。

一般的には、若いときにはもっとがむしゃらに、自分を承認して欲しい、一山当てて凄いことを成し遂げたい、と情熱を傾けるのが、ある種「正しい」生き方だとされています。私にも、もちろんそういう一面もあったのですが、一方で上のような奇妙な達観をなぜか子供の時に持ってしまった。それと表裏一体で、自分は曲がりくねった、ちょっと屈折した承認欲求を持ってしまった。人に褒められてもちっとも嬉しくないと思う一面があり、人に認められなくても屁とも思わない、ちょっと変なところがあったように思います。

だから、この歳になってようやく調和が取れてきたのかもしれません。そして、この曲がりくねった達観の向こうに何があるのか、それを自らを持って確かめるのも楽しいのではないかと、最近思うようになりました。