minofoto and miscellaneous notes

ごく気まぐれに,書きたいことを適当に書いています。本当の話かもしれませんし,フィクションかもしれません。

ルールを作るのは誰か?

日本の小中学校では学級会・ホームルームやら、生徒会選挙といった形で民主主義を体験する教育が行われています。でも、あれが本当に民主主義の練習になっているかというと、少なくとも自分の子供の頃を思い出すとそうは思えません。級長・生徒会役員などというものに、たいした実権は伴わないし、教師の管理が厳しいので、実際には体よくクラス管理の仕事を押し付けられていただけのような印象があります。

むしろ、クラブ活動の部長や、学園祭の実行委員といった、自分たちの裁量があり達成感のある仕事からの方が、学ぶことは多かったような気がします。

大人になると、遊びでも職場でも、たとえば自治会などでも、人が集まると、必ず雰囲気の醸成、方針を決めたり、ルールを作ることが必要になってきます。たいていは人望がある人、そういうことができる人がそういう苦労を背負い込むことになりますが、単なる苦労では誰も引き受けません。適度に楽しみを加えて、モチベーションを高めつつ物事を進めてゆくのがコツでしょう。たとえばサークル活動の責任者などはそもそも、自分たちの楽しみのためにやるものですし、マンションの管理規約を起草したときは、しょっちゅう宴会したりして楽しくやらせてもらいました。ルールなんて真面目一徹で作ってもろくなことはなく、利益があったり、楽しかったりといった理由がないと作っても仕方がないし、作っても守られない。


なぜこんなことを急に書き始めたかというと、週刊文春フィギュアスケートの選手の出産を批判するかのようなアンケートを取りはじめ、それを批判されて撤回したというニュースを見て考え込んでしまったからです。

結婚というのは社会のルールです。あえてルールと書いたのは、それが民法で定義されているからです。重婚などを除いて、そのルールから外れることが禁止されている訳ではありませんが、ルールから外れる場合はある程度の不利益があるのが現状です。

価値観抜きで起こったことを記述すると、「彼女はそのルールから外れたため批判されている」ということになります。逆に週刊誌が批判されたのは、いろいろな理由があるでしょうが、そのルール自体がもはや適切じゃない、と考える人も多かったということでしょう。

結婚・家族に関するルールというのは複雑です。法律を改正しさえすれば済む、という簡単な問題ではありません。人間社会の文化や、人間の生殖という生物学的な特性に由来していたりするので、なぜこの社会は結婚に関してこういう慣習をもっているのだろう?と人類学の研究対象になっていたりします。人々の意識は、変えようとして簡単に変えられるものではありません。

でも、社会情勢の変化や少子化に伴って、変えなくてはいけないルールがあるのは確かです。かつて保育園の拡充を地方議会に陳情したときに保守系の会派は「そもそも女が子供を預けて働くなんてけしからん」という理由で却下したので呆れたことがあります。調べていませんが、さすがに最近はそんなことを言う議員は減っているはずです。そうやって、少しずつ慣習・常識が替わり、ルールも変わってくるはずです。

つまり、言いたいのは、時間がかかっても我々は慣習・常識を変えてゆかなくてはならない、ということです。ではどうやってそんなもの変えるのか? 世代が変わったらだんだんと変わっていくのか?若くても保守的な考えの人はいるし、そんな単純でもない気がします。

たとえば AKB48 には恋愛禁止というルールがあるそうですが、それを破ったあるメンバーは破門されたわけじゃなく、飛ばされて一応見せしめにされたものの、結局人気投票でで1位になったとか。あれは大人の対応と、いろんな人の思惑と、人々の意識と、さまざまなものの重ね合わせの結果のように見えます。そしてそれがエンターテイメントとして消費されていく過程で、さらに人々になにか意識の変化を植え付けているような気がします。人々の好奇の目にさらされる仕事はなかなか大変でしょうが、そういうエンターテイメントの世界で起こるいろんなことが、人々の意識をちょっとずつ変えていくのかもしれない、と思います。

難しいルールブックの改訂じゃなく、身に染みて分かる体験や感情移入できる体験で人々は変わってゆくのでしょう。批判にさらされても身を持って価値観を提案してゆける強さが自分にも欲しい。