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ごく気まぐれに,書きたいことを適当に書いています。本当の話かもしれませんし,フィクションかもしれません。

宮崎駿氏、映画制作から引退

記者会見をネットに上げられた動画で切れ切れに見ました。この方と同じ時代に生きられた私たちは得がたい経験をさせてもらった、と言うべきでしょうね。

体力、集中力が続かないので、次の映画は7年かかるかもしれない。それは無理なのでやめる、まだ他にやりたいことがあるから、という話、自分の親父が最期の力を振り絞って本を書き上げた姿を間近で見ただけに、それには強い説得力を感じました。

映画製作について、宮崎氏が指示だけ出して他の人に描かせるということはできない、それができるならとっくにやってます、という意味のことも言っていました。これもとてもよく分かる。

自分の仕事でも、ここ数年、他人に任せるという試みを何度も何度もやってきましたが、どれもうまくいかない。人間関係のトラブルばかり増えて、自分のやりたかったことは全く進まない。任せる相手が心の底から関心があることしか、結果としては引き出すことができないということは、身を持って理解してきました。完成させる前から説明できるようなことにはそれほど価値はなく、説明できないことは他人にはとても任せられないのです。

本当に創造的な結果は、作り手の指先と不可分であって、人が頭の先で考えただけでは作り出せないものでしょう。



この世界は生きるに値するということを子供たちに伝えるために映画を作ってきた、という言葉もありました。これは、おそらく逆説的な言葉でしょう。私は宮崎氏の映画からは逆のことを強く感じます。児童文学作家のミヒャエル・エンデ氏は「人生は耐えがたい、それを少しでも耐えやすくするために、芸術家は作品を作るのだ」という意味のことを語っていましたが、宮崎氏の作品にそれと同じことを強く感じます。生きるということはもともと絶望であり、それでも私たちは生きないといけない。そうやって開き直ったふてぶてしい生き方の中に、わずかだけど希望はあるかもしれない、ということが、ナウシカもののけ姫風立ちぬなどの作品から感じる印象です。

私たち人間は、9つの絶望があっても、1つの希望があれば生きてゆける。たぶんそういう仕組みで作られているのでしょう。