minofoto and miscellaneous notes

ごく気まぐれに,書きたいことを適当に書いています。本当の話かもしれませんし,フィクションかもしれません。

日記は他者のはじまり

生家から汚れた日記帳が出てきました。表紙を見て、こどもの頃、年末に父親からプレゼントされた日記帳だったことを思い出しました。年明け1月から日記が始まっています。

1月28日 日曜 ☀はれ
 きょう南きょくのうちゅうちゅうけいがせかいではじめてやりました。その一ばんはじめにやったのをぼくは見ました。朝おきたらやっていたので見ていました。

これをなぜ書いたのでしょうか?
「世界初!」と盛り上がった番組をみて興奮していたのでしょう。そういうことで「俺も見た!」と一緒に騒いでくれる友達があまりいなかったせいもあるかもしれません。この日記はその自分の興奮を聞いてくれる「他者」だったのかもしれないな、と思います。何のために書くか、なんてことは考えてもいなかったはずですが、この文章はどこか他者の目を意識した文章になっている気がします。

多くの人は、学校の宿題として「えにっき」「夏休みの日記」というものを体験しているはずです。多くの日本人は自我や社会性が芽生える頃に、日記というものに触れていて、何のために書くのかと考える以前に日記に物を書くという体験をしていると思います。この日記も親に教えられるがままに、単に日記というちょっと大人っぽいことをしてみたかったという気持ちで書いていたのかもしれません。

そういう文化的な背景が、今のさまざまな SNS の文化の背景になっているのでしょうね。誰かに見せるためであろうと、誰にも見せないつもりの日記帳であろうと、書かれた文章というものは全て、様々な濃淡のスペクトルで社会とつながっているのだろうな、と、子供時代の頃の日記帳を見て思います。人を惹きつける文章、魅力的文章がいいのはもちろんですが、目的のない文章の味わいというのもまたいいなぁ、と、ふと思いました。

最近ブログ論というのをちらちらと読んだりするので、雑多なことを書いてみました。