minofoto and miscellaneous notes

ごく気まぐれに,書きたいことを適当に書いています。本当の話かもしれませんし,フィクションかもしれません。

10年日記

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10年前を思い返すと、東日本大震災の年だ。
 当時、物理系の論文原稿を書き上げ、トップジャーナルに投稿してエディターリジェクトとなり、早く再投稿しようとボスにプレッシャーをかけていた。マニアックではあるがそこから応用にも研究を広げる余地がある良い論文だったと思うけど、1回のリジェクトでボスには投稿を後回しにされてしまい、あの論文はたぶんまだ当時のボスの PC に眠ったままだと思う。
 家庭内はぼろぼろで、家に精神的な居場所がなくなった頃でもあった。仕事の後にコンビニでお弁当とビールを買って、一人で暗い居間で遅い夕食を取っていた記憶がある。休みの日も家にいられないので自転車で多摩川沿いを走っていた。
 初夏の頃になり、父から妙に明るい声で電話があった。ステージ4の癌で余命数ヶ月だという。山が好きな父への感謝を込めて、夏には山に連れて行こうと計画も立てていたところだった。言葉を失うというのはこういうことかと思った。余命の長さより、残された人生の QOL を取りたいという治療方針も一人で決め、最後に本を1冊書き上げ、年末には「空手還郷」という言葉を残してこの世を去っていった。
 たまに実家に帰って父との残りの時間を惜しみながらも、自分の家庭は完全に崩壊したのでアパートを探して別居し、夕飯は近所の沖縄料理屋に通うようになった。後で聞いたことだが、カウンターで一人で泡盛を飲んでいた私の背中からは、近寄りがたい黒いものが漂い出していたらしい。

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 そのお店には毎週通うようになり、最初はマスターとだけ話していたが、カウンターでふらりと同席した人と話をするようになり、更に友人と呼べる人たちもできた。2013年に閉店するまで、マスターや常連さんたちには心の支えになってもらったと思う。閉店後も連絡を取り合い、その仲間たちと朝まで飲み歩いたり、ゲーム会に誘ってもらったり、いろんな付き合いが続いた。
 また、2013年には登山を再開した。学生時代が終わり、子育てと仕事が忙しくやめてしまっていたのだが、登山靴を磨き直して2泊3日で木曽駒ヶ岳空木岳を縦走した。一人ではあったが、小屋で意気投合した人たちとビールを酌み交わし、楽しい山行となった。2013年中には雲取山にも登り、2014年には雪のなか丹沢塔ノ岳と鍋割山、奥多摩の三頭山に登り、鳳凰三山を縦走した。単独行だけでなく、仲間を探すようになり、相模湖のほとりの嵐山、奥多摩の川苔山、奥秩父金峰山赤城山、日光男体山といろんなところに登った。2015年も鍋割山、天城山、棒ノ折と登った。
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 2013年には FEBS Letter に論文が掲載されている。これはトラブルでラボを去った後輩の仕事を引き継いでデータを追加し、論文にしたもの。「こんな研究は論文にしても仕方ない、インパクトファクター 1.6 ぐらいのマイナー雑誌になら投稿してもよい」、と突き放されつつ、価値がある仕事だからとボスを繰り返し説得して出した論文。これは後から学会などでも「なんでもっと良い雑誌に出さなかったの」と聞かれることになり、自分の考えの方が正しかったことを示すことができた。というより、自分の視野がもっと広ければ、もっと良い雑誌に投稿できたはずなので、そこは後悔している。それはともかく、その論文の続きを進めるべく入念に作戦を練って研究所内セミナーで発表し、ラボの外で自分の研究をサポートしてくれる共同研究者を見つけて進めた研究は、ラボの方針と違うと毎週のミーティングで責められたが、耐え忍んでなんとか 2016年の頭には Nature Communications に掲載することができた。
 その過程で、ボスとの考えの違いが明白となり、もうこの環境では仕事はできないと、転職活動をはじめた。アカデミックなポジションはもちろんずっと探してきたけれど、公募されるポストはどんどん減ってくるし、自分の少ない業績に加えて年齢を考えると厳しいことは分かっていたので、本格的に民間企業への転職を探した。アカデミックなポジションにはついに面接に呼ばれることすらなかったが、民間企業はいくつか面接に呼ばれ、その中から運良く札幌の小さなベンチャー企業に開発職として採用された。
 これまでやってきた基礎研究を捨て、1から新しいことをやる覚悟で北海道に渡り、入社後は頭を下げて自分より若い人たちからいろんなことを学んだ。しかし、驚くほど運が良かったのは、私が得意としていたにもかかわらず入社時には聞かれもしなかったある技術が、会社の状況が大きく変わったときに必要とされたことだった。また、アカデミアで苦労しながら後輩のポスドクやテクニシャンたちのサポートをしてきたことも大いに役に立ち、管理職として一部門を任せてもらえることになった。世の中ではアカデミアのスキルは民間では通用しない、とよく言われていたのだけど、少なくとも自分の経験の範囲では決してそんなことはなかった。
 今は開発やマネジメントの仕事の傍ら、レビュー論文を頼まれたり、共同研究の論文書きのお手伝いなど、一応ではあるが研究も続けられている。
 また、相手も見つけて2016年には2度めの結婚もした。
 思い返すと、大げさに言えばどん底から這い上がる、もしくは自分の若い頃の失敗による負債を返済する10年だった。それは苦難の道でもあったけど、2011年当時には想像すらできなかった面白い10年だったとも言える。次の10年がどうなるか全くわからないが、そろそろいい歳なので、後進を育てることにも注力しつつ、そろそろ老後ということも考えていくことになるのだろうな、と思っている。
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