minofoto and miscellaneous notes

ごく気まぐれに,書きたいことを適当に書いています。本当の話かもしれませんし,フィクションかもしれません。

日記という伝統

親父は亡くなる前に自分で日記を焼いてたんじゃないだろうか、という話を兄弟から聞いてちょっと触発されたので、ドナルド・キーン「百代の過客」を読みはじめました。平安時代からある有名な「日記文学」の紹介ですが、こういう方面に疎い私には目からウロコの興味深い話です。

日記というと、プライベートなイメージがありましたが、いわゆる日記文学の名作はむしろ日付をつけてストーリーを描くという手法で書かれ、客観的な記録とは違う主観が強いものや、いつか他人に読まれることを前提にしたもの、など、さまざまあるという話に驚きました。日記帳というよりはむしろ今の blog に近いイメージですね。

そういえば、子供の頃の日記に興味深いものを見つけました。

11月25日(水)
じゅくの帰りの時ぼくはだいぶ自転車をとばしていました。しんごうが黄だけど、わたろうと思って前へ進みました。そうしたら自動車のバンパーが前にあって…ガチャンとしょうとつしました。ぼくはびっくりしてぼくはすみませんと言って自転車をうしろにさげました。自分でけがはないかとさがしていると、右足がふるえていました。道のはんたいにいた2人の人が「だいじょうぶ?」ときいてくれたので「だいじょうぶ」といいました。自転車もこわれていないか見ているとかごがへしゃげていました。するとどこかのおじさんがきてなおそうとしながら「だいじょうぶだった、けがはなかった」と聞いてくれました。そうしたら、ハンドルがまがったので(曲がっていたので、の意?)、なおしてもらいました。そのおじさんは車でぶつかった人でした。ぼくはこれはいい教くんになると思いました。このことはだれにもいわないつもりです。

これはその時は、本当に誰にも言わないつもりだったというか、恥ずかしくて誰にも言えなかったのでしょうが、でも誰かに言いたかったのでしょう。それを日記帳に向かって吐き出した。でも、この吐き出し具合は実は誰かに聞いて欲しかったという意味で、誰かに読まれるのを想定していたと理解することも可能です。

日記文学とはそういう微妙な、日本的な不器用なコミニュケーションの賜物なのかもしれません。